2018年6月23日

ムチャ振り続きの田中絹代

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戦前・戦中・戦後を生き抜いた田中絹代と言う大女優

田中絹代と言う日本映画史の黎明期から活躍を続けた大女優についても、今ではあまりはっきりと覚えている方も多くはないと思います。
「絹代ちゃん」と呼び親しまれて今で言う、アイドルっぽい人気を博したのも彼女が初めてのことでしょう。

日本映画史において田中絹代の果たした役割は非常に大きく、ここには書き切れませんが、小津安二郎監督作品では1933年のサイレント映画「非常線の女」が特に強く印象に残っています。
1938年の「愛染かつら」で田中絹代が押しも押されぬ国民的大スターになる6年も前の作品です。

大体が田中絹代と言う女優さんは五尺にも満たない身長で(150cmあるかないかってところです)、丸顔でアゴがないどちらかと言うとアイドル顔です。
その彼女にギャング団の女ボスの役を振るんですから、小津と松竹の間に何の契約があったのか知りませんが、ヴァムプ(妖婦)型女優は他にいくらでもいたと思うんですけれど、相当のミスマッチです。

けれども非常線の女は、意外とおもしろい映画なんです。
戦前の小津はアメリカ映画に強く影響を受けていたので、とくべつホームドラマやローポジ撮影に頑固なこだわりを持っていたわけではないんですけれど、この映画はモノクロ作品なので当然、光と影の使い方やカメラアングルが非常にオシャレです。

仕立てが良さそうなコートに身を包んだ絹代が終始仏頂面で、コートのポケットに両手を突っ込んで、ギャングの下っ端のむくつけき男ふたりにアゴで指図するんです。
こんな田中絹代は、なかなか見られませんよ。
きっと、当時のマスコミは「田中絹代新機軸」とか書き立てたことでしょうね。

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ストーリーもテンポが良くて、若き日の小津のアメリカ志向が垣間見られるオシャレな作品です。
機会がありましたらどうぞご覧くださいませ。

戦後の小津の復帰第一作に出演しましたが、酷評されました

時は流れ(田中絹代と言う女優さんは、おっそろしいほど女優生命が長い人です)、終戦後の1948年。
戦時中南方へ赴任していた小津の復帰作の第一弾が、絹代を主役にキャスティングした「風の中の雌鶏」です。

絹代の役柄は、戦地から戻って来ない夫を待つ、小さな子どもを抱えた主婦です。
ある日、子どもが病気になり、お仕立てものなどで細々と生計を立てていた絹代にはお医者さんにかかるお金もなく、今で言うママ友さんに聞いたお店で一夜だけ春を売るんです。
このお金で子どもをお医者さんに診せることができて、子どもは一命を取り留めます。

同時に復員した夫に「このこと」を隠しておけなかった絹代は、洗いざらいことの顛末を白状します。
夫はもちろん激高し、彼女を間借りしている2階の部屋の大峡団から突き落としてしまうんです。
あの、田中絹代をですよ。

この作品はヒットせず、小津自身も失敗作と認めています。
たしかにこのようなテイストの作品は小津じゃなくても、絹代じゃなくても撮れる作品でしょう。
両者にとって損な作品と思いました。

マスコミのバッシングを受ける中での「宗方姉妹」の撮影

戦後、アプレゲールなどとかまびすしい1950年に「宗方姉妹」が撮影されました。
高峰秀子が妹役です。
「嵐の中の雌鶏」から「宗方姉妹」までの間に田中絹代は、溝口健二の作品で海外の映画祭の賞を受賞して外遊しています。
その時に「田中絹代は今のままではいけない、イメージチェンジを図りたい」と絹代自身の考えで、帰国便の飛行機に現れた時にはアメリカし立てのニュールック、目には大きなサングラス、そして報道陣に投げキッスと、おおよそ似合わないパフォーマンスを繰り出したんです。

これはもう、格好のマスコミの餌食となりました。
「アメション女優」(アメリカへ小便をしに行っただけの女優)と揶揄され、田中絹代は女優生命最大のピンチを迎えている中での「宗方姉妹」の撮影でした。

この作品では田中絹代は卑屈なおばさんに見えて、私もあまり好きな役ではありません。
きっと演じている絹代自身にも大きな迷いと自信喪失があったことでしょう。

こうして考えてみると、小津は田中絹代で「大当たり」した作品を撮っていないように思います。
やはり次なるスタァ。原節子のチカラが必要だったのでしょう。

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